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息障院、源頼朝の弟・範頼の館跡で謎めいたその生涯に触れる【埼玉・吉見町】
鎌倉の「下馬」の碑
琵琶橋と琵琶小路
鎌倉十井「星の井」と虚空蔵堂
鎌倉・材木座の来迎寺
鎌倉サクラ散歩③<妙本寺>
鎌倉・西御門の来迎寺
源氏山公園の源頼朝公銅像碑
鎌倉の常栄寺(ぼたもち寺)
本覚寺 頼朝ゆかりの夷堂
鎌倉 鶴岡八幡宮へ 追記しました
源頼家と段葛
若宮大路幕府旧蹟
法華堂跡(2)源頼朝の墓
法華堂跡 北条義時の墓
【珍百景】カラクリばかり!熊本の南阿蘇鉄道「阿蘇下田城駅」が面白すぎる【ワンピース】
内大臣小松重盛神社
またまた登場「謎のバス停」
試験湛水でできたダム湖を撮影した場所には?
さよなら MT2003A&MT3001ラストランツアー
流水型の立野ダムが満水に?
国際化の波か?
(日本一時帰国´23)ほぼカリブの海賊、店全体が大きな釣り船のようなレストラン
宇城市「天城鐡道」さん
子守地蔵尊
走り初めは「謎のバス停」
変わる街並み
これ何に見える?
郵便配達の方が
矢部「八朔祭2023」
探検530 幕末天皇の謎めいた死因
現代日本ではとんと見られることがなくなった「天然痘」も、実は明治時代に入るまではかなり猛威をふるっており、その凄まじい病状自体がまた「恐怖の対象」になっていた。仮に運よくこの「病状」を乗り越えられたとしても、はっきり天然痘跡が残る人も少なくなく、実際、幕
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【武都】章『天地鳴動』編「源家滅亡」⑦源実朝の右大臣任官
前述の通り、源実朝は、大江広元に対して、源氏の正統な血統は、自分の代で終わり、子孫が継ぐことはないと述べており、生涯、子供ができないことを自覚していたと思え…
【武都】章『天地鳴動』編「源家滅亡」⑥源実朝の官位上昇
前節、「北条義時」と、本節「源家滅亡」は、年代順に記述していない。 最大の理由は、源実朝の治世を年代順に記述すると、一節では、収まらなくなり、特に、和田義盛…
【武都】章『天地鳴動』編「源家滅亡」⑤源実朝の渡宋計画
1213年(建暦三年)5月3日、和田義盛の乱が、鎮圧されると、戦後処理が行われた。 同年9月19日、日光山別当の法眼弁覚が、大夫阿闍梨重慶が、謀反を企ててい…
【武都】章『天地鳴動』編「源家滅亡」④源仲章
北条義時は、1205年(元久二年)閏7月の牧氏事件によって、父の北条時政を追放し、第二代執権の座に就いたことは、既に述べた。 父の時政の性急な権力独占が、多…
「恵美須ヶ鼻造船所跡」ー明治日本の産業革命遺産ー
「丙辰丸」「庚申丸」を建造した「恵美須ヶ鼻造船所跡」 今回は、山口県萩市にある萩の産業遺産群の一つ「恵美須ヶ鼻造船所跡」をお届けします。 萩の産業遺産群には、萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡
毛利氏ゆかりの地「毛利元就公歯廟」
毛利元政が絶えず身に付けていた、父・元就の歯 今回は、山口県周南市熊毛にある、毛利氏ゆかりの地「毛利元就公歯廟」をお届けします。 中国地方の覇者、毛利元就は、軍略・政略・謀略に優れた武将で、一代の
探検529 幕府の十万犠牲者弔い法
人為的災害として、犠牲者の多さでは日本史上でも指折り数えられるであろう一つが「明暦の大火」(別名・振袖火事/1657年)だ。その数は10万人以上にもなったようだから、彼らを葬ってやろうにも人数が多すぎて、とてもじゃないが民間だけでは対応し切れない。そこで幕府が
【武都】章『天地鳴動』編「源家滅亡」②東重胤
前述の通り、源実朝は、1203年(建仁三年)9月、十二歳の年、征夷大将軍に任官した。 当初、外祖父の北条時政が、執権として、実権を握っていたが、牧氏事件によ…
【武都】章『天地鳴動』編「源家滅亡」①日本史上における北条政子
日本人の歴史教科書と言われる、NHKの大河ドラマは、2024年までの六十三作までに、北条政子、豊臣秀吉の妻のねね、川上貞奴、春日局、日野富子及び、前田利家の…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑫和田一族の滅亡
1206年(建暦三年)5月3日、朝比奈義秀は、鎮西の住人である、小物資政を討ち取り、土屋義清、古郡保忠と、三騎、轡を並べて、敵陣に突入すると、将軍の軍勢を攻…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑪朝比奈義秀
年(建暦三年)5月2日午後六時、和田軍は、一斉に大倉御所を襲撃して、御所を警護する、将軍の軍勢、北条泰時、北条朝時、足利義氏等の兵と合戦に及んだ。 そして、…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑨三浦義村の思惑
北条義時の思惑とは異なり、将軍の源実朝は、泉親衡の乱は、終焉し、危機は去ったと認識していた。 泉親衡の乱の目的は、北条義時の打倒であり、将軍の源実朝ではなか…
探検528 文明開化ですっぱり断捨離
少々乱暴に言い切ってしまうなら、明治に入った頃のいわゆる「文明開化」とは、日本が従来使用していた「モノサシ」を西欧製のそれに切り替えることだったのかもしれん。いい例が、伝統ある?「チョンマゲ頭」から割合素気ない「ザンギリ頭」への転換だが、ひょっとしたら女
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑧和田朝盛
1213年(建暦三年)3月9日、源実朝の意向の名目によって、和田義盛の一門、九十八人の面前で、北条義時の郎党、金窪行親、安東忠家は、和田胤長を二階堂行政に引…
関宿城、梁田氏と北条氏が10年間激突した水運の要衝【千葉・野田市】
【愛知旅行】6歳2歳の子連れで国宝犬山城へ登ってきた。おすすめの時間帯や滞在時間
■吉田城【三河国】
米沢城
九戸城
白石城
■躑躅ヶ崎舘【甲斐国】
桜も咲こうか?もうすこし待つか?困っっているようだ。
姫路城【二回目】@兵庫県
本丸御殿だけじゃない!川越城ゆかりのスポット5選【埼玉・川越市】
仙台城【二回目】@宮城県
若林城@宮城県
熊本城@熊本県
大坂城@大阪府
明石城【三回目】@兵庫県
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑦和田胤長
泉親衡の乱に参加していたのは、和田義盛の四男の和田義直及び、五男の義重、そして、和田義盛の弟、義長の息子の胤長である。 三人が、泉親衡の乱に参加したのは、武…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑥和田一族
泉親衡の乱は、首謀者の泉親衡の逃亡及び、その与同者達の配流及び、恩赦によって、終焉を迎えた。 しかし、泉親衡の乱は、鎌倉の武家政権の草創以来の最大の内乱の発…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」⑤泉親衡の乱の顛末
千葉成胤が、安念を北条義時に引き渡した。 義時の郎党である、金窪行親の尋問の結果、安念は、謀反の全容を自白した。 首謀者は、泉親衡、与同の武士は、張本百三十…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」④泉親衡の乱
源実朝は、北条義時が、自身の郎党を武家政権の御家人に列することを認めなかった。 義時の嘆願を却下したため、実朝は、和田義盛の上総介への推挙を認めることができ…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」③和田義盛の願望
1209年(承元三年)5月12日に、源頼朝の挙兵以来の功臣下、侍所別当の和田義盛が、上総介任官の推挙を源実朝に求めた。 和田義盛は、三浦義明の孫であり、三浦…
探検527 諸行無常をその目で
橘氏の出身で唯一皇后に立てられた女性、それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(786-850年/享年65)であり、仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から死後「檀林皇后」と諡号された。千年以上経った今もなお、世に類なき美貌の持ち主だった、
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」②新古今和歌集
源実朝は、1203年(建久三年)の比企氏の乱の動乱と共に征夷大将軍に就任し、二年後の1205年(元久二年)、畠山重忠の乱及び、牧氏の変が、勃発している。 源…
【武都】章『天地鳴動』編「北条義時」①日本史上における北条義時
2022年の大河ドラマ、『鎌倉殿の13人の』主人公は、北条義時である。 後世、鎌倉幕府と呼ばれる、武家政権の構築者、政治的天才の源頼朝及び、瞬く間に、平家を…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」⑩宇都宮朝綱の失脚
1205年(元久二年)8月7日、牧氏の変の翌月、下野国の有力御家人、宇都宮朝綱が、謀反を疑われた。 宇都宮頼綱は、宇都宮業綱の息子で、宇都宮朝綱の孫に当たる…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」⑨牧氏事件
源頼朝は、「坂東武士の鑑」として、畠山重忠に、「頼朝の後胤」を護ってくれるように、慇懃の詞を尽くしていた。 しかし、畠山重忠は、比企氏の乱の際、妻の父、北条…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」⑧平賀朝雅の院昇殿
平朝雅は、源義光の四男、源盛義の孫である。 源義光の長男の義業は、常陸国の佐竹氏、次男の義清は、甲斐源氏の祖となり、佐竹氏及び、甲斐源氏は、治承・寿永の乱の…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」⑦牧の方
牧の方は、北条時政の後妻で、北条政子、北条義時、阿波局、北条時房の継母である。 北条時政は、1138年(保延四年)の生まれのため、1180年(治承四年)の源…
探検526 中国地方っていったい何者ですか?
日本列島をいくつかに分ける場合、代表的なひとつが北から順に、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方に分割する方法だ。まあ、これには異議もないと思うがダ、ひょっとして、ヒメ隊員はこんな疑問を抱いたことはないか?~「中国地方」の
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」⑥稲毛重成の誅殺
北条義時は、畠山重忠討伐に疑念を抱く、御家人達を見て、事実関係を確認していった。 父の北条時政が、言葉を失い、畠山重忠の謀反は、冤罪であると証明されたが、源…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」⑤二俣川の戦い
1205年(元久二年)6月22日、鎌倉は、謀反が発生したと大騒ぎとなり、御家人達は、謀反人を誅するべく、由比ヶ浜へ先を争って走った。 畠山重忠の嫡子の重保は…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」④畠山重忠の乱
坊門信清は、京の朝廷の後鳥羽上皇の外叔父であると同時に、鎌倉の三代征夷大将軍、源実朝の義父になった。 坊門信清は、朝廷の頂点の上皇及び、鎌倉の頂点の将軍、双…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」③坊門信清の娘
1204年(元久元年)9月10日に始まった、平賀朝雅の平家残党軍との合戦は、三日後の12日には、鎮圧され、その後、伊賀国の残党が、追討された。 わずか、三日…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」②元久元年の三日平氏の乱
源全成の死後、北条時政が、千幡の乳母夫の立場になったが、乳母は、北条時政の娘、阿波局のままであった。 牧の方は、北条政子、北条義時、阿波局にとって、継母のた…
「萩キリシタン殉教者記念公園」ーキリシタン弾圧による悲しい歴史ー
熊谷、天野らの殉教碑とキリシタン信徒が眠る墓 今回は、山口県萩市にある「萩キリシタン殉教者記念公園」をお届けします。 政府によるキリシタン迫害により、あまたの命を落とした信徒たちがいます。&nbs
軍人であり政治家であった「山県有朋」ー山県有朋誕生地ー
当時の光景が思い出される「山県有朋誕生地」 今回は、山口県萩市にある「山県有朋誕生地」をお届けします。 山県有朋は、奇兵隊総督、明治以来日本陸軍の第一人者となり、首相(2回)枢密院議長を歴任し「元
「郡司鋳造所遺構広場」ー大砲を製造した鋳造所跡ー
大砲のレプリカや大砲鋳造遺構がある「郡司鋳造所遺構広場」 今回は、山口県萩市にある「郡司鋳造所遺構広場」をお届けします。 松陰神社のほど近くには「郡司鋳造所遺構広場」があり、公園になっています。&
「大板山たたら製鉄遺跡」ー明治日本の産業革命遺産ー
世界遺産「大板山たたら製鉄遺跡」 今回は、山口県萩市にある「大板山たたら製鉄遺跡」をお届けします。 たたら製鉄とは、千年以上の歴史を持つ日本在来の製鉄技術です。 炉の中で原料の砂鉄と燃料
【武都】章『鎌倉騒乱』編「源実朝」①日本史上における源実朝
源実朝は、1192年(建久三年)8月9日、源頼朝と北条政子の次男として、生まれた。 同年7月12日、源頼朝は、念願の征夷大将軍に任官しているため、実朝は、生…
探検525 国定教科書の渡辺登って誰?
ヒメ隊員はおそらく、「国定教科書」ってものを御存知ではなかろうから、始めに少し簡単な説明をしておこう。~日本では1903年(明治36)から小学校の教科書が国定と され、忠孝の教育が強調されたが、1948年(昭和23)以降は 教科書検定制度に移行した~つまり戦前は忠孝
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑫伊豆国修善寺
1203年(建久三年)9月5日、源頼家は、危篤を脱し、意識を回復すると、嫡子の一幡及び、比企一族の滅亡を知ると激昂した。 源頼家は、堀親家を使者として、仁田…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑪比企氏の乱
1203年(建久三年)9月2日、北条時政が、比企能員を暗殺すると、能員の従者達は、能員の暗殺を比企一族に伝えた。 比企能員の息子の宗員、時員、五郎、猶子の河…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑩比企能員暗殺
源全成が、誅殺されると、同年7月16日、全成の三男、阿野頼全が、京の東山延年寺で、源仲章によって、誅殺された。 四男の阿野時元は、外祖父の北条時政、叔母の北…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑨阿野全成事件
前述の通り、1199年(正治元年)10月、梶原景時弾劾事件によって、梶原景時は、失脚。 翌年の正月20日、景時は、戦死した。 その三日後の正月23日、三浦義…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑧源頼家の征夷大将軍任官
佐々木盛綱は、越後、佐渡、信濃国から参じた、御家人達を編成し、阿賀野川を渡った。 佐々木盛綱は、城資盛に軍使を使わすと、資盛は、鳥坂城の付近で戦闘を行うと返…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑦建仁の乱
梶原景時の変の一年後、1201年(建仁元年)正月23日夜、城長茂が、京の三条大路南の東洞院大路東に所在する、小山朝政の邸宅を襲撃した。 朝政は、この時、大番…
探検524 幕末鬼っ子新選組
「京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/ 新選(撰)組」(前身は壬生浪士組).これが「新選(撰)組」の正式な名称ということになる。ただ、「新選組」と「新撰組」の表記については、さして拘りがなかったのか、局長の立場にあった近藤勇(1834-1868年)自
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑥北条時政の国司任官
梶原景時は、源頼朝の死後、わずか、一年後に滅ぼされた。 十三人の合議制は、解体し、鎌倉の有力御家人の権力闘争の皮切りとなった。 そして、その最終的な勝者が、…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」⑤梶原景時の変
1199年(正治元年)12月29日、梶原景時の鎌倉追放後、事件の発端である、結城朝光の兄の小山朝政が、景時に代わり、播磨国守護になり、同時に、美作国守護は、…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」④梶原景時の失脚
三浦義澄・三浦義村・千葉常胤・千葉胤正・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・藤原朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・大井…
【武都】章『鎌倉騒乱』編「御家人闘争序曲」③梶原景時弾劾の連判状
源頼朝の死後、鎌倉殿になったのは、北条時政の娘、北条政子の息子、源頼家である。 源頼朝は、1182年(寿永元年)の頼家の誕生時、比企尼の養子の比企能員、比企…
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