在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
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【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 113.徳川家康・百壱
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 112.徳川家康・百
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 111.徳川家康・九十九
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 110.徳川家康・九十八
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 109.徳川家康・九十七
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 108.徳川家康・九十六
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 107.徳川家康・九十五
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 106.徳川家康・九十四
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 105.徳川家康・九十参
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 104.徳川家康・九十弐
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 103.徳川家康・九十壱
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 102.徳川家康・九十
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 101.徳川家康・八十九
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 100.徳川家康・八十八
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 99.徳川家康・八十七
現在、豊国神社のある場所には、かつて豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿がありました。その痕跡はほとんど残っていませんが、今回はその跡地を歩きます。 豊国神社の...
「その1」のつづきです。京都・豊国神社の宝物館を紹介します。 宝物館です。鉄筋コンクリート製ですが、開館は大正14年(1925)の12月だそうですから、当...
豊臣秀吉が眠る豊国廟から1kmほど西に、豊国神社があります。その名称からわかるように、豊臣秀吉を祭神とする神社です。 慶長3年(1598年)8月18日に伏...
前稿で阿弥陀ヶ峰の山頂にある豊臣秀吉の墓をお参りしましたが、その参道の西麓に、秀吉の孫の豊臣国松と秀吉の愛妾・松の丸殿の供養塔があります。 かつて豊国社の...
徳川家康の墓といえば、世界遺産にも登録されている日光東照宮や静岡県の久能山東照宮が有名ですが、同じく天下人だった豊臣秀吉の墓は、あまり知られていません。秀...
前稿、前々稿で豊臣秀吉が京都に築いた幻の城、伏見城と聚楽第をめぐってきましたが、京都にはもうひとつ、まさに「幻の城」と言っていい秀吉の城がありました。令和...
前稿では豊臣秀吉が築いた伏見城跡を歩きましたが、今回は、同じく秀吉が築いた聚楽第跡を歩きます。聚楽第は天正13年(1585年)に関白となった秀吉が京の政庁...
京都の平安京から南に少し離れた伏見に、かつて伏見城がありました。伏見城は豊臣秀吉が築いた指月伏見城と木幡伏見城、そして関ヶ原の戦い後に徳川家康が再築した3...
「関ケ原の戦い」(1600年)の直前の話だが、当時豊臣方(西軍)を切り盛りしていた故・豊臣秀吉の腹心・石田三成(1560-1600年)は、有力武将を味方につけるべく、その妻子を人質に取る作戦をとった。人質を大坂城に留め置くことで、彼らが徳川方(東軍)につくこと、それと
~織田信長(1534-1582年)は、大将の馬の廻りに付き添って護衛・ 伝令・決戦兵力として働く親衛隊的な存在である「馬廻」などの 精鋭を赤・黒二色の「母衣衆(ほろしゅう)」として抜擢した~さらに、~その中でもとりわけ優秀な者については、部隊の指揮官にまで 昇進さ
苦労の末に奪取した自らの権力を、わが子・秀頼に継承させるべく心を砕いた晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、政権運営の一端を配下の有力武将、いわゆる「五大老」に輔弼させる形を取りました。徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、五大老には、秀吉に可愛がられてそ
~宇宙の中心である中国王朝の文化・思想のみが最高のもので あり、それを持たない周辺(辺境)の異民族は単なる野蛮人に 過ぎない~こうした思想を「中華思想」と呼びますが、これがハンパなものでないことは、東西南北四周の異民族の総てに対して、野蛮人を意味する東夷
JR長浜駅の東口を出てすぐのところに、羽柴(豊臣)秀吉と少年・石田三成の出逢いの像があります。石田三成は、ここから5kmほど東の近江国坂田郡石田村(現在の...
近江横山城跡のある横山丘陵の南東麓にある大原観音寺は、あの石田三成が羽柴秀吉に三杯の茶を献じたという伝承のお寺だそうです。 写真は観音寺惣門。まるで城門の...
「その6」のつづきです。虎御前山頂上の織田信長の陣地跡まで制覇しましたが、まだ北側に砦はあります。 なだらかな下り坂の尾根道を進みます。 古墳のような丘陵...
龍野古城(鶏籠山城)攻城記 その3 <搦手道~>
龍野古城(鶏籠山城)攻城記 その2 <Ⅰ郭>
龍野古城(鶏籠山城)攻城記 その1 <登山口~Ⅱ郭>
シダレザクラの高屋城
丸岡城天守閣と石垣
■吉田城【三河国】
丸岡城の石垣と北陸の山🗻
桜満開の善防山城を歩く。 その2 <東郭>
福井城の石垣と御本城橋 続日本100名城
古代城と中世城が混在する城山城。 その3 <主郭・井戸跡・石塁>
古代城と中世城が混在する城山城。 その2 <石塁・門の築石>
古代城と中世城が混在する城山城。 その1 <古墳群・登山道>
赤松氏庶流の城・楯岩城。 その3 <本丸>
23.06 石垣島・竹富島へ07
新石垣空港を利用する時のお土産検索ランキング2023|ばらまき土産や地元のお土産情報、お菓子や限定品などを探す良質検索10選
戦国武将・小早川秀秋(1582-1602年)のプロフィールはこうなっています。○羽柴(豊臣)秀吉(1537-1598年)の義理の甥として 生まれる(奇しくも「本能寺の変」の年)○秀吉の養子(1585年)になり、秀吉妻・おねに育てられる。○養父・秀吉に実子・秀頼(後継者)が誕生
「その9」のつづきです。小谷城北部の六坊跡から清水谷を下山します。 清水谷は、大嶽城跡のある小谷山(伊部山)から南側に両腕のように左右に伸びる尾根筋の間に...
「その6」のつづきです。小谷城上段主郭群の京極丸跡にやってきました。ここは、小谷城を築城した浅井亮政が、本来の主家にあたる京極氏を迎え入れたと伝わる曲輪で...
前稿で紹介した大徳寺総見院から南へ800mほど下ったところに、織田信長を祀る建勲神社があります。ここは明治2年(1869年)に明治天皇の御下命により創建さ...
昨日の稿で京都阿弥陀寺にある織田信長の墓をお参りしましたが、京都市北区にある大徳寺の塔頭・総見院にも、信長の墓があります。ここは、信長の死後、羽柴(豊臣)...
本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日。つまり、織田信長の命日ですね(現代の暦でいえば、6月21日にあ...
豊臣秀吉(1537-1598年)政権下で、ともに五大老としてその職責を担っていた徳川家康(1543-1616年)と前田利家(1538?-1599年)のその後は以下のようになりました。○1598年 豊臣秀吉の死 (享年62)○1599年 前田利家の死 (享年62?)○1600年 故・利家の妻・まつ(
天下布武を目前にしながら、その直前に家臣・明智光秀の謀反に倒れた織田信長(1534-1582年)。そしてその後の政局を掌握したのは、同じく信長の家臣だった羽柴秀吉(1537-1598年)でした。後に新姓を賜り「豊臣秀吉」と名乗ることになる人物です。そして、その名乗りの変遷
「その5」のつづき、シリーズ最後です。高松城址公園から南東約600mのところに、備中高松城の戦いで羽柴秀吉が本陣を布いた石井山があります。「その1」で高松...
「その4」のつづきです。備中高松城跡から南西へ1kmほど離れたところに、かつての高松城水攻めの際に羽柴秀吉が築いたとされる堤防の一部が現存しています。 こ...
「その2」の続きです。高松城址公園の東にある妙玄寺というお寺の境内に、「清水宗治自刃之地跡」と刻まれた供養塔があります。 その入口にある石碑です。 さらに...
「その1」のつづきです。備中高松城本丸跡にやってきました。 現在、本丸跡は芝生公園になっています。 備中高松城は永禄年間(1558~70年)に、備中松山城...
過日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の水攻めで有名な備中高松城跡を訪れました。現在、城跡は「高松城址公園」として整備されています。 城跡は国の史跡に指定され、「続日...
「死んでも生きている」?別にフランケンシュタインやゾンビのお話ではありませんが、実は「その時死んだ」ことが歴史の事実として確定しているにもかかわらず、「いや、奴サンは実は死んではいなかったのだ」と主張される人物が、日本史には少なからず登場しています。これ
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が次回で最終回をむかえ、本能寺の変が描かれます。歴史好きな人はもちろん、歴史にそれほど興味がない人でも、日本人なら誰もが知っ...
天正5年(1577年)10月16日、明智光秀は第二次丹波攻略に取り掛かります。同月10日に信貴山城の戦いで松永久秀を自刃に追い込み、その後、返す刀で兵を...
「その1」の続きです。 北近江の浅井長政の謀反の報せを受けた織田信長は、亀元年4月28日(1570年6月1日)夜、撤退を決意します。いかに優勢な兵力を持...
戦国の覇者・織田信長(1534-1582年)の家臣であった明智光秀(1528?-1582年)は、主君・信長に対する謀反「本能寺の変」(信長暗殺事件/1582年6月)を決行しました。その直後には、その首謀者・明智光秀に対する、これまた信長家臣・羽柴秀吉(1537-1598年)が弔い合戦と
考えてみれば、宗祖・親鸞(1173-1263年)さんもまったく与り知らないことになりますが、後世の浄土真宗は二つの本山を持つことになりました。一般的には、それを「東本願寺」と「西本願寺」と呼んでいますが、ただし、これは便宜上のことであって、正式にはどちらも「本願寺
筆者が学校授業で学んだ頃の「江戸時代」の社会については、概ねのところあまり良い評価がされていませんでした。総じて、封建制・士農工商・鎖国・飢饉など、「薄暗いイメージ」で語られる内容が少なくなかったからです。しかし、学校授業から離れ、歴史に対して割合自由で
なんだかんだと言っても、戦国時代の人物相関には大変ややこしいものがあります。たとえば以下の内容がその通りで、この説明を分かりやすいと感じる人は、やはり少数派でしょう。~ええか、よく聞け!話は戦国時代だ。 毛利元就※1の実子が次男・吉川元春※2と三男・小早
現代ですと「茶人」という言葉から文化人・芸術家を連想する人も多いと思われます。しかしながら、その歴史を辿れば必ずしもそのようには断定できない側面も備えていました。たとえば、茶人として名高い「千利休」(1522-1591年)のその最期は時の天下人である豊臣秀吉(1537
主君・織田信長(1534-1582年)が謀反に倒れた後の天下を掌握したのは、信長の家臣であった羽柴秀吉(1537-1598年)でした。権謀術数の限りを尽くして、織田家の血統を出し抜き、敵対する勢力を滅ぼし、あるいは臣従させた結果です。ところが、ここまでの既成事実を作れば、
「その2」の続きです。伝前田利家邸跡から大手道を挟んで向かい側(西側)に、ひときわ大きな郭跡があります。 その入口には、「伝羽柴秀吉邸址」と刻まれた石碑が...
日本人は、スペインがフィリピンを植民地とする以前からルソン島に居住しており、日本商人による交易が行われていた。しかしスペインがフィリピンを侵略したため、日本商人は商圏が奪われることとなり、スペイン人と対立することとなる。豊臣秀吉は、フィリピン総督であるスペイン人のダスマリナスに三度にわたり降伏勧告状を送っている。その内容にスペイン人は恐懼している。
秀吉は海外貿易を行う商人に朱印状を与えて貿易の統制をしたが、江戸時代になると、日本との交易が禁じられていた明の商人にも朱印状が発行されている。南蛮貿易も活発化して、東南アジア各地に日本人町が発達し多くの日本人が移り住んだが、ポルトガル船により多くの日本人奴隷も送られた。後に江戸幕府は武器・奴隷・傭兵の禁輸令を出している。
日本の歴史は、江戸時代(1603-1868年)から明治時代(1868-1912年)へと移りましたが、ここでは一般的にこんな評価が残っているようです。~江戸時代は暗黒、その暗黒を打ち破ったのが明治時代~つまり、露骨に言えば、江戸幕府は悪の存在であり、その悪を打ち倒した明治新
「関ヶ原の戦い」(1600年)で、徳川家康(1543-1616年)率いる徳川連合軍に惨敗した豊臣方、つまり秀吉側室の淀殿(1569?-1615年)とその息子である秀頼(1593-1615年)は、その後なんと15年もの間、宿敵・家康に頭を下げることを頑なに拒み続けました。その後の「大坂の陣
戦国武将・佐々成政(さっさ・なりまさ/1536?諸説あり-1588年)による「さらさら越え」・・・その史実は、音韻からイメージする爽やかさとは打って変わって、相当に過酷なものだったようです。では、その「」さらさら越え」とは、いったいどんなこと?織田信長(1534-1582
国史跡の日根野に慈眼院と日根神社があり、伝承によるといずれも秀吉の紀州攻めで焼かれたとされている。更に山に入ると火走神社があり、さらに進むと七宝瀧寺がある。この寺も秀吉の紀州攻めで焼かれたと伝わっている。なぜこんな山奥の寺までが焼かれたのだろうかと誰でも疑問に思うところだ。
泉南地区の大威徳寺、神於寺、孝恩寺、水間寺を巡って来たが、いずれも秀吉の紀州攻めの際に焼かれた伝承が残されている古刹である。しかしながら、根来衆の防衛ラインの最も東にあった千石堀城の戦いでは城内の根来衆は全滅している。防衛ラインよりも東や北側の寺が焼かれているはなぜなのか。イエズス会のフロイスの記録に着目したい。
文禄五年に来朝した明の使節が奉じた国書には、三年前に秀吉が伝えた講和条件は全く反映されず、日本を明国の属国とする内容であった。明国との講和交渉を担当したのはキリシタンの小西行長だが、当時の宣教師たちの書簡を読むと、行長はスペイン側の戦力に織り込まれていた。秀吉が彼に講和交渉を委ねたのは誤りであった。
GHQ焚書となった加藤武雄『豊臣秀吉』では朝鮮出兵について、朝鮮にはろくな軍備がなかったので陸戦は連戦連勝で勝ち進んだことが記されている。しかしながら、日本軍の船は輸送を主目的で建造されたものであり、朝鮮海軍に物資の輸送を阻まれて兵糧不足が深刻となり講和交渉が始まったが、明の国書に秀吉は激怒する。
GHQ焚書の『豊臣秀吉』は戦前に書かれた秀吉の伝記だが、この本には戦後の日本人には知らされていない史実が書かれている。当時の宣教師がポルトガル・スペインの侵略の先兵であり、多くの寺社が破壊され、土地が奪われ、日本人が奴隷として海外に売られ、それらの問題に秀吉がどう向き合ったかという視点に立つ本は今も少ない。
秀吉軍の紀州攻めで粉河寺は全山全焼したが、高野山は秀吉の提示した条件を全面的に受け入れて焼かれずに済んだ。一方雑賀衆の残党は太田城に集結し籠城して秀吉軍と戦おうとしたが、秀吉は紀ノ川から水を引いて、太田城を水攻めにして雑賀衆を全滅させた。その後秀吉軍は紀南の国人衆と戦い勝利したが、地侍はその後何度も蜂起した。
在野の研究者の歴史書から学んだ結果をまとめたもの
日野市および周辺の地域情報や歴史にまつわる話を取り上げています。
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親鸞
令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」を応援しましょう。
ガイドブックに載っていない、ローマの観光スポットを歴史とともに語る。
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
町奉行・寺社奉行・公事方勘定奉行、自身番屋・辻番・木戸番、火付盗賊改、関東取締出役、目明し・岡っ引き・手先、囚獄、評定所などに関するトラバ用テーマです。
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに30数年前に埋蔵金の研究をしたことを記載する。当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、日本トレジャーハンティングクラブの代表として、TV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加えておく。
戦後GHQは昭和三年から昭和二十年までに刊行されていた書物のうち7769点を指定し、本屋などで流通していた書籍を没収・廃棄し、戦後の日本人に読めなくしました。 どのような書籍が没収されていたかを調べると、軍国主義的な書籍よりも圧倒的に多いのは、戦勝国にとって都合の悪い史実などが書かれた本であることが分かります。 GHQ焚書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、3割程度の本がネットで公開されています。実際に読んでみると、戦後詳しく知らされてこなかった史実などが満載です。